負けを認めよう|人生に失敗したと感じる人へ

この記事の内容
「まだ終わったわけではないけれど、とにかく自分の人生は失敗だった」と感じている人は少なくないのではないでしょうか。
- なぜ自分の人生はこうも悪いことが多いのか?
- なぜ自分の人生ばかり上手くいかないのか?
- なぜ自分はいつも失敗してしまうのか?
- なぜ自分はいつも間違った選択をしてしまうのか?
考え出したらきりがないけれど、それにしたって上手くいかないことが多すぎる。
後悔の連続。
納得いかない。
そんなとき、素直に負けを認めてみてはどうでしょうか?
勝ち目のない勝負を続けていても、おそらくは一度も勝てないまま、あっという間に寿命が尽きてしまいます。
負けを認め、敗残者としていかに生きていくべきかを考えてみると、知らず知らずのうちに負の連鎖から脱却している自分自身に気づくことになるかもしれません。
そもそも人生の失敗とは何か?
失敗とは、今のあなたが幸せじゃないこと
人生の失敗とはいったい何でしょうか?
それは、今のあなたが幸せではないことです。
当然と言えば当然ですが、今のあなたが幸せであれば、人生に失敗したとは考えないでしょう。
今のあなたが幸せなら、過去に失敗はないことになる
仮にあなたが過去にどれほど大きな失敗を重ねてきたとしても、今のあなたが幸せでありさえすれば、その幸せは過去の数々の失敗のうえに成り立っている幸せです。
それはつまり、過去の失敗があったからこそ得られた幸せであり、過去の失敗がなければ得られなかった幸せです。
その意味では、過去の失敗は失敗ですらなく、あなたが幸せになるための単なる過程だということになります。
そう考えれば、あなたが幸せになりさえすれば、あなたの過去に失敗は一つもないことになります。
そこにあるのは失敗ではなく、幸せになるための単なる過程だからです。
ということは、あなたの人生の失敗を帳消しにするためには、あなたが幸せになればそれでOKということになります。
あなたが幸せになった瞬間、人生の失敗は帳消しとなり、幸せになるための過程へと変わるのです。
自分が必要かどうかではなく、自分が何を必要としているか
そんなわけで、人生に失敗したと感じるあなたに必要なもの、それは「今のあなたが幸せになるために何が必要かを考えること」です。
もし、あなたの人生が誰にも必要とされない人生であれば、あなたはその人生を失敗と感じるかもしれません。
ただ、ここでは、あなたが誰かにとって必要な人間かどうかはまったく関係ありません。
そうではなく、あなたが何を必要とするか、あなたが幸せになるために何を必要としているか、それを考えるのです。
考え、実行し、幸せになりましょう
そのとき、あなたの人生の失敗は消滅します。
そして、そのためのスタート地点こそ、負けを認めることではないでしょうか?
負けを認め、人生の勝者となるために
まず、負けを認める
まずは「負け」を認めて受け入れましょう。
なかなか厳しい作業ですが、これまでの人生が失敗だと思えば、それは「負け」です。
「まだまだ自分は負けていない!これからも何度でも挑戦する!」という思いがあれば、それはそれですばらしいことです。
ただ、力尽き、自分の人生は失敗だったと思い悩むようであれば、それは立派な「負け」です。
負けを認め、自分が「敗残者」であることを受け入れましょう。
次に、あきらめて捨てる
負けを認めたら、これまでの人生で成しえなかったこと、挑戦したが失敗したことなどをどんどん諦めていきましょう。
「もしかしたら、もう一度挑戦すれば成功するかもしれない…」という考えを捨てましょう。
頑張ればできるかもしれないこと、頑張れば手に入るかもしれないもの、それらは今後いくら頑張ってもできないこと、手に入らないものです。
頑張ればできたのであれば、頑張れば手に入ったのであれば、それらはすでにあなたの手中に収まっているはずです。
今の時点で手に入っていないということは、今後も手に入らないということです。
ある程度若い人であればともかく、老いて衰えていく一方であるあなたが、これまで手に入れられなかったものを今後手に入れられる可能性はないものと考えましょう。
そして、可能性や希望を徹底的に捨てていきましょう。
名誉、社会的地位、経済的成功、羨望の的になること、人より優位に立つこと、いわゆる「普通」になること、これらに対する可能性や希望を捨てていきましょう。
そして、残ったものを確認する
自分の可能性を切り捨て、希望を切り捨てたら、その後は「それでも捨てきれなかったもの」を確認します。
あらゆる可能性や希望を捨てても、それでも残っているもの、捨てきれないもの、それがあなたが今後大切にしていくべきものです。
それはいわば、あなたの芯であるもの、あなたの人生の中心核となるもの、あなたが今後の人生で最も大切にすべきものです。
それは何でも構いません。
以前からの趣味かもしれませんし、家族を思う気持ちかもしれませんし、人に優しくありたいという思いかもしれませんし、自分と同じような悩みを抱える人の役に立ちたいという思いかもしれません。
あるいは、「あいつだけは許せない」という憎悪かもしれませんし、納得できないことに対する腹立たしさかもしれません。
何でもいいのです。
あとは、一点に集中する
残ったものを確認できたら、あとはその一点にエネルギーを集中するだけです。
自分はもうこれだけのために生きていく、これをライフワークにすると心に決め、エネルギーを集中します。
生きている限り日常の雑事は付いて回りますが、意識のベクトルは常に「残った一点」に向けられています。
そこには「負け」や「失敗」はありません。
エネルギーを集中することは過程であり、結果ではないからです。
気付けば勝っている
意識のベクトルを大切な一点に向け、エネルギーを集中するという行為や過程には、「負け」も「失敗」もありません。
そして、気が付けば、あなたはもう「敗残者」ではなくなっています。
むしろ、「自分自身の最も大切なものに目を向け、そこに最大限のエネルギーを注いで生きる」ことのできる、そんな人生の勝者となっているはずです。
つまり、負けを受け入れて敗残者として生きることにより、結果的には自分の人生に勝っているのです。
負けや失敗のない場所で、勝者になり成功者になることができるのです。
北条民雄の小説『いのちの初夜』から学ぶ
北条民雄は、大正3年生まれの作家です。20歳のときハンセン病を発病し、昭和11年に小説「いのちの初夜」を「文学界」に発表しました。
以下、青空文庫からの部分的引用ですが、小説のラストに近いこの部分の「滅亡 → 新しい思想、新しい目の獲得 → 復活」という流れが、負けを認めた人の再生と重なるような気がします。
よろしければ、全文を読んでみてください。このページの下部にリンクを貼っておきます。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
北條民雄 いのちの初夜(青空文庫)
佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて、黙って考えた。
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
尾田はますます佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません」
佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の昂奮すらも浮かべて言うのだった。
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復かえるのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」
参考図書
諸富祥彦(2012)『人生を半分あきらめて生きる』幻冬舎新書
参考ページ(青空文庫)
この記事を書いた人

氏名 | 鈴木 雅人(すずき まさと) |
生年月日 | 1980年(昭和55年)4月1日 |
国家資格 | 社会保険労務士 第10230004号 精神保健福祉士 第26879号 |
座右の銘 | 人間万事塞翁が馬 |