大学生活に馴染めない、社会に適応できない私の体験記
この記事の内容
1998年からの約10年間、大学生活に馴染めず、社会に適応できず、うつうつとした日々を過ごした私の体験談です。
なんとなく生きづらさを感じている人に、「こんな感じの人でも生活しているんだから自分も大丈夫だろう」と思っていただければ嬉しいです。
私について(1980年生まれです)
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当時住んでいた場所ごとに時系列で記載してあります
この記事は、私が当時住んでいた場所ごとに区切って、出来事や思ったこと・感じたことを時系列で記載してあります。
場所と年月は次の通りです。最後までお付き合いいただければ幸いです。
1998年(平成10年)4月~1999年(平成11年)3月
(神奈川県秦野市のアパートで一人暮らし、東海大学に在学)
1999年(平成11年)4月~2003年(平成15年)3月
(埼玉県越谷市のアパートで一人暮らし、文教大学に在学)
2003年(平成15年)4月~2004年(平成16年)6月
(東京都調布市のアパートで一人暮らし)
2004年(平成16年)7月~2006年(平成18年)3月
(北海道札幌市のアパートで一人暮らし)
2006年(平成18年)4月~2008年(平成20年)2月
(群馬県前橋市の実家で親と同居)
神奈川県秦野市
1998年(平成10年)4月~1999年(平成11年)3月
体育学部を1年で退学
私は、大学に進学し、一人暮らしを始めると同時に抑うつ状態になりました。
中学・高校と部活動で陸上競技に打ち込んでいたため、その流れで体育学部に進学(推薦ではなく一般入試)したのですが、進学した時点ですでに熱意を失っていたのだと思います。
今にして思えば、「燃え尽き症候群」のような状態だったのかもしれません。
部活動やサークル活動は何もやらず、他のことに打ち込んでみようとしても虚しく、アルバイトをしても続けられず、友達をつくることは苦手で、アパートの一室で悶々とした日々を過ごしていました。
死にたくなる
そんな生活ですので、数か月が過ぎたころには「死にたい」と思うようになりました。
周りと同じようにできない、アルバイトもすぐ辞めてしまい続けられない、やりたいことがない、何をすべきなのかさっぱりわからない…そんな思いばかりを抱えていました。
とにかく自己嫌悪、自責の念、罪悪感、劣等感、敗北感にさいなまれていました。
これらの思いは、断続的にではありますが、その後約10年続くことになります。
大学に入り直したい
やがて、どうせなら大学受験をやり直そうと考えるようになりました。
たしか、8月か9月頃のことだったと思います。
それまでも親には泣き言を漏らしており、息子から連日のように電話で泣き言を聞かされる親の方も精神的に疲労困ぱいしていたようで、再受験には賛成してもらえました。
そして、アパートの一室で勉強だけをする日々を送り、再受験、再入学へと進みました。
埼玉県越谷市
1999年(平成11年)4月~2003年(平成15年)3月
大学再入学
2回目の大学入学は、人間科学部の心理学コースを選びました。
心理学を学べば、自分のことが良く理解でき、抑うつ状態にならずに済むと考えたからです。
再入学し、これで気持ちも新たに楽しい毎日を過ごせると思っていたのですが、世の中そう甘くはありません。
結局、馴染めない
大学に再入学したものの、結局は大学に馴染むことができませんでした。
若さとエネルギーにあふれる、いわゆる「楽しい学生生活」にまったく馴染めなかったのです。
相変わらず部活動もサークル活動もやらず、友人を持つことは苦手で、アパートの一室でひとり悶々とした日々を過ごしていました。
自己嫌悪、自責の念、罪悪感、劣等感、敗北感、希死念慮は相変わらずでした。
小説を読む
この頃から読書をするようになり、主に太宰治や村上春樹らの小説を救いを求めるように読んでいました。
他にやることもなく、アルバイトも自分には続けられないと思っていたなかで、本を読むという行為が唯一の救いだったように思います。
大学の図書館で、『完全自殺マニュアル』と『人間失格』(太宰治)を同時に借りたりしていました。
カギとスイッチが気になる
再入学したころから、強迫症のような症状が出るようになりました。
私の場合は、アパートの鍵をかけたか、家電製品のスイッチを切ったかが気になって仕方ありませんでした。
きっかけは、まだ体育学部に在籍していたころの出来事ですが、こたつのスイッチをONにしたまま実家に帰ったことでした。
それ以来、特に数日間アパートの部屋を空ける際に、鍵などを何度も何度も確認し、そうこうしているうちにお腹の調子が悪くなり、トイレに行き、また初めから確認行為を繰り返し…という流れでなかなか家を出られないことがありました。
学生相談室と精神科クリニックに行く
2年次から3年次にかけて、大学の学生相談室に通っていた時期がありました。
臨床心理士の相談員さんが学生の相談に乗ってくれており、一時期通って話を聞いてもらっていました。
具体的に何を話したのかはもう覚えていないのですが、寝転んでマンガを読んだりできる相談室内のアンニュイな雰囲気が、妙に居心地よかったのを覚えています。
また、同じような時期に、一度精神科のクリニックを受診したことがあります。
私にとっては初めての精神科(もしかしたら心療内科だったかもしれません)の受診でした。
どのような症状を訴えたのか、自分でもよく覚えていないのですが、処方してもらった薬が合わなかった(強すぎた?)ことだけは、はっきり記憶しています。
どのように合わなかったのかというと、一時的に気分が不自然に高揚し、普段自分からは話しかけないような人に話しかけたりするようになりました。
さらに、後頭部を引っ張られるような不思議な感覚があったり、ふらついてきちんと歩けなかったりというようなこともありました。
そのため、自分の判断でそれ以上の通院や服薬はやめ、結局、一度診てもらっただけで終わりました。
20歳以上の学生へ
精神科や心療内科に行く前に、国民年金の「学生納付特例」を知っておきましょう。
国民年金を未納のまま受診すると、障害年金を一生受給できなくなる可能性があります。
余談ですが…
仮に、私が精神の障害で障害年金を請求するとします。
そして、この精神科クリニックの受診を「初診日」として証明しなければならないとします。
ところが、私はこのクリニックの名称も場所もまったく覚えていません。
受診年月日も覚えていません。
この受診に関する何らかの資料もまったく残っていません。
私が当時このクリニックを受診していたことを知る人も、まったくいません。
このようなケースは、意外とよくあるのではないでしょうか…
では、このような事態を防ぐためには、どうすればよいのでしょうか?
ひとつは、万が一に備え、初診日を証明するための「受診状況等証明書」を早めに取得しておくことです。
数千円で作成してもらうことができ、有効期限があるわけではありません。
アルバイトをしてみる
アルバイトは、体育学部の頃に居酒屋を1日で辞めたり、スーパーを1週間くらいで辞めたりしていたので、自分には無理だと思っていました。
再入学した後も、個別指導の塾講師を1回か2回で辞めています。
そして、辞めるたびに罪悪感や劣等感が大きくなっていきます。
それでも、アルバイトをしていないことによる罪悪感や劣等感というものもあり、それを払しょくするために何かやらなければならないと思っていました。
そこで、宅配便の仕分け作業の短期アルバイト(1か月間)をやってみたところ、これは1か月間続けることができました。
お歳暮かお中元の時期だったと思うのですが、1か月のアルバイトを計2回やったような記憶があります。
そこで気を良くし、次に郵便局の仕分けアルバイトをやってみたところ、これも半年くらいは続けることができました。
余談ですが…
私が「社会保険労務士」という資格の存在を知ったのは、この郵便局でのアルバイトがきっかけです。
やはりアルバイトをしていた同じ大学の学生が、社労士試験の勉強をしていたのです。
資格取得のための勉強をしているという話を聞いただけなのですが、なぜかそれ以来、私の頭の片隅に「社会保険労務士」という単語がこびりついて離れませんでした。
もしその人が行政書士の勉強をしていると話していれば、今ごろ私は行政書士になっていたかもしれません。
人生というのは本当に分からないものだとつくづく思います。
就職活動と卒業論文
3年次の後半から卒業までの時期、この時期は私の5年間の大学生活のなかで比較的良い時期、前向きになれた時期でした。
なぜかというと、やるべきこと、やらなければならないことがあったからです。
それは、就職活動と卒業論文で、私はやるべきことができて嬉しく思っていました。
また、卒業と就職について考えることで、ようやくこの生活から脱出できるという将来に対する希望・期待感のようなものも、持つことができていました。
そして、就職活動をし、アピールできることは何もありませんでしたが、奇跡的に1社から内定をもらうことができました。
その後、卒論は「脳死と臓器移植」という心理学とはまったく関係のないテーマで、担当の先生に全く相談せずに一人で勝手に書き、社会人になれるという希望を胸にどうにか卒業することができたのです。
これで、自己嫌悪、自責の念、罪悪感、劣等感、敗北感、希死念慮からは逃れられると信じていました。
そして、このときはまだ、ここからさらに5年間苦しむことになろうとは、夢にも思っていなかったのでした…。
東京都調布市
2003年(平成15年)4月~2004年(平成16年)6月
就職し、新社会人になる
さてさて、なんとか5年間の大学生活を終えた私は、都内のソフトウェア会社に勤めることとなりました。
プログラミングを習得し、システム開発に携わろうと思ってのことでした。
コンピューターに強いわけでも、そのための勉強をしたわけでもなかったのですが、一人で黙々と作業ができそうだという何となくのイメージで、その業界を選びました。
当時は、「ようやく憂うつな学生生活が終了した。これからは頑張って仕事に打ち込み、自分なりの生活を確立させていこう!」と前向きな気持ちを持っていました。
就職に合わせて東京都調布市に引っ越し、気合を入れて社会人生活をスタートさせました。
半年で退職
結局、新卒でせっかく採用していただいたこの会社は、半年で退職しました。
研修についていけなかったのです。
研修に上手くついていけず、徐々に気分も落ち込みがちになり、それがさらに頭の回転を鈍らせ、余計についていけなくなる…という悪循環の状態でした。
休日は一人で誰とも話さず過ごしていたため、気分転換もできなかったのかもしれません。
しばらくおさまっていた希死念慮も復活し、通勤の電車内で「死にたい」と思ったのを覚えています。
そして、「死ぬくらいなら辞めよう」ということで辞めてしまいました。
自分にとってはつらい学生生活が終了し、希望をもって社会人になったわけですが、それもたった6か月で終了となったわけです。
咳が止まらない
この会社を辞める1か月ほど前から、咳が止まらなくなっていました。
軽い咳ではなく、肺の奥底から出てくるような重い咳で、一度診察を受けてみたものの、レントゲン等では異常なしとのことでした。ストレスによるものだったのだろうと思います。
この咳は退職後しばらくして自然におさまったものの、その後もストレスが大きくなってくると出てくることが何度かありました。
警備員になる
新卒で入社した会社を半年で退職した後、私は警備員のアルバイトをしていました。
採用してもらえそうな仕事、何より自分にもできそうな仕事という観点で選んだものでした。
それ以上先のことは特に考えておらず、また考えることもできませんでした。
この仕事は、8か月ほど続けました。
北海道札幌市
2004年(平成16年)7月~2006年(平成18年)3月
札幌に引っ越す
警備員のアルバイトは、初めのうちは新鮮で面白くやっていたのですが、徐々にうつうつと考え込む時間が多くなっていきました。
そのうちに、「何かやらないと気が済まない」という気持ちが大きくなり、なぜか北海道に引っ越してみようと考えるようになりました。
失うものは何もありませんし、なんとなく北の大地に憧れがあったのかもしれません。
人間のクズ
札幌のアパートに引っ越しをしてみたものの、当然のことながら、特に何かが変わるわけではありません。
それでも、何かしらやらなければと思い、郵政職員の採用試験を受けて筆記試験で落ちてみたり、営業職に就いて3日ほどで辞めてみたり、食品工場のアルバイトをやはり3日程度で辞めてみたり、日雇いのアルバイトをやってみたり、いろいろとやってみました。
そして、こんな調子なので、これも当然のことながら、だんだんと抑うつがひどくなっていきました。
自分は周囲に迷惑をかけるばかりで、本当にどうしようもないダメ人間、人間のクズだという思いしかありませんでした。
精神科クリニックで号泣する
このような状況のとき、一度精神科(あるいは心療内科)のクリニックに行きました。
気持ち的に毎日があまりにもつらいので、何かラクになるような薬を処方してもらえればと思ったのです。
このとき、医師に「君は病気じゃないから頑張りなさい」と言われ、私は診察室で大泣きしてしまいました。
医師の言葉がどうこうというわけではないのですが、気持ちの糸が切れたのかもしれません。
あるいは、同情してほしかったのかもしれませんし、病気だと言ってほしかったのかもしれません。
自分でもよくわかりませんが、私は診察室でしばらく号泣し、困ったような顔をした医師からティッシュをもらい、涙を拭き鼻をかみ、待合室に戻りました。
そして、そのときの、受付にいた若い女性の驚いたような感じ、待合室内の何とも言えない気まずい雰囲気をよく覚えています。
今となっては良い思い出ですが、そのときは「自分はいったい何をやっているのだろう」と思いながら、トボトボとアパートに帰ったのでした。
再び警備員になる
その後、自分には結局これしかできないのではないかということで、再び警備員をやることにしました。
当初、これもすぐに辞めそうになりましたが、勤務時間を調整してもらい5か月ほど続けることができました。
しかしながら、ご多分に漏れず、続けるうちにうつうつと考え込むようになっていったのでした。
精神保健福祉士を目指す
新卒で入社した会社を半年で辞めている私の履歴書は、この時点でもはや修復不可能な状態となっていました。
そして、今後どうすればよいのだろうかと考えたとき、安直といえば安直ですが、何か資格を取るしかないと考えました。
そこで、大学の再入学を考えたときと同様、再び親に泣きつき、専門学校に1年間通う学費等々をお願いしたのでした。警備員を辞め、再び学生に戻ったわけです。
精神保健福祉士という資格は大学生の頃から知っていました。
抑うつの経験を生かしたいと考えていた私は、もうこれしかないと思い、すねかじりの後ろめたさはありつつも、前向きな気持ちで専門学校に通ったのでした。
そして、1年間まじめに勉強し、実習に行き、国家試験を受けた後、もう群馬に戻って地に足をつけてやっていこうと考え、実家に帰ることを決めました。
まだ25歳、資格とやる気をアピールして就職し、人生を立て直していこうと考えたのでした。
しかし、抑うつの神様は、まだ私を許してはくれませんでした…。
群馬県前橋市
2006年(平成18年)4月~2008年(平成20年)2月
実家に戻る
精神保健福祉士になるための専門学校(1年間)を卒業して実家に戻った私は、とにかく仕事をしなければと焦っていました。
それまで親のすねをかじっていた後ろめたさがあり、高校を卒業してから計6年間も学校に通わせてもらったうえに無職であることの後ろめたさもありました。
そして、精神保健福祉士の資格を少し生かせそうな仕事を見つけ、社会人としての再スタートを切ったのでした。
就職したものの
気合を入れて再スタートを切ったものの、やはりというか何というか、結局はほんの数か月でメンタル不調の状態になってしまいました。
もう、とにかくつらいのです。どうにかごまかしながら仕事を続けようともしましたが、結局ダメなのです。精神的につぶれてしまうのです。あまりの弱さ・脆さに自分でもびっくりするくらいです。
そして、やはり死にたくなり、このときは本当にもう死ぬしかない、終わりにするしかないと思い詰めました。
親に負担をかけ、勉強をして資格を取り、満を持して再スタートを切ったものの、結局は何も変わらないという現実に対し、やはりもう何をやってもダメなのだという絶望感がありました。
再スタートを切ってから、わずか4か月ほどしかたっていませんでした。
橋から飛び降りようとしたものの
もういよいよ終わりだと思った私は、実行に移そうとしました。
真夜中、利根川に架かる橋から飛び降りようと考えたのです。
橋の欄干を乗り越え、ぶら下がり、あとは手を離せば落下できるというところまではいきました。
しばらくぶら下がっていましたが、しかし、手を離すことはできませんでした。やはり怖かったのです。
死ぬこともできないか…と思いながら家に帰ったのを覚えています。
その後、仕事は無断欠勤をしたり謝罪したりした後、辞めました。
また無職です。再スタートを切ったつもりが、結局は状況が悪化しただけでした。
精神科病院へ
さて、死なずに退職した私は精神科の病院に行きました。
もしかしたら入院を勧められるかなと思っていましたが、まったくそのようなことはなく、抗うつ薬を処方してもらいました。
この病院はその後しばらく通っていましたが、復調したと自分で感じた時点で勝手に通院をやめてしまいました。
なお、あまりよく覚えていないのですが、再スタートとして就職してから飛び降り未遂をするまでの4か月の間に、一度精神科(心療内科?)のクリニックに行きました。
漢方を処方してもらったような気がするのですが、結局一度診てもらっただけで、その漢方を飲んだのかどうかも覚えていません。
すぐにつぶれる
再スタートに失敗した後、抗うつ薬を服用しながら少しの間は何もしていませんでした。
しかし、少し元気になってくると、やはり働かなければという考えが出てきます。
そこで私は、1か月間の短期アルバイトをしてみることにしました。
仕事内容は駐車場の警備員です。1か月間だけということで、リハビリとしてちょうど良いだろうと考えたのです。
1か月続けられれば、少し自信も戻るだろうと思っていました。
ところが、これは2日目くらいで、あっさりとつぶれてしまいました。
朝、布団から出られないのです。
前の日の晩は特になんということもないのですが、朝、急にダメになってしまうのです。
そんなこんなで、自信をつけるために良かれと思ってやってみたアルバイトでしたが、逆に自責の念をひどくするという結果になってしまいました。
続けられたアルバイトもある
その後、また懲りずにアルバイトをすることにしました。何もしていないことに対する罪悪感に耐えられなかったのです。
結局、このアルバイトは1年近く続けることができました。
一人で自動車を運転する時間が長いアルバイトだったのですが、それが合っていたのかもしれません。
そして、なんとなく自信も回復してきたような気がしていました。
やっぱりつぶれる
その頃、私は27歳になっていましたので、あるとき、正社員としての就職先を探すように言われました。
そのときは、私もなんとなく自信がついてきていましたので、一人で車の運転をする仕事なら続けられるだろうと考えました。
そして、たまたま良さそうな正社員の求人があったため応募したところ、たまたま採用してもらえました。
また気分一新、アルバイトをやめて就職したのでした。
しかし…しかしと言うかやはりと言うか、それも結局2~3日で辞めてしまいました。
急激につぶれてしまうのです。
以前の駐車場警備員の短期バイトと同じで、前の日の晩はなんということもなく「明日もがんばろう」と思って寝るのですが、朝になるとどうしても体が動かないのです。
それまではひとつのアルバイトを1年近く続けられており、自分でももう大丈夫だろうと思っていたのですが、何ともあっけなくつぶれてしまう現実に、まさに茫然自失の状態でした。
もう死んでしまいたいという思いでしたが、自分にはそれもできないことがわかっていましたので、もう試みることもしませんでした。
このときは、もはや「辞めます」という電話もできず、FAXを1枚送って終わりにしてしまいました。
このときに限った話ではないですが、本当に周囲に迷惑をかけるために生きているようなものでした。
奇跡的に社会人になれた
またまた振り出しに戻ったというか、状況をさらに悪化させた私は、その後また何もしない日々を過ごしていました。
何か仕事をしなければならないという思いだけはありましたので、とりあえず新聞の折り込みチラシを確認し、できそうな仕事についてぼんやり考えていました。
そして、たまたま目についた続けられそうな仕事に応募し、たまたま採用していただき、奇跡的につぶれることなく続けることができ、とりあえず「社会人」になることができたのでした。
ようやく「社会人」になることができたと自分で思ったときには、28歳になっていました。
※「社会人」について:本来、社会を構成する一員であれば誰でも社会人ですが、この記事では、当時の私が目標としていた「会社員」という意味で「社会人」という言葉を使っています。
おわりに
ここまで長々と書いてきましたが、28歳以降(2008年以降)、人並みのストレスはあるものの、特に大きなメンタル面の危機というものはなく生活することができています。
「社会人」はすごくない
仕事をなかなか続けられないときは、世の中の「社会人」は本当にすごい人たちだと思っていました。
ものすごい努力をして、つらさや苦しさに耐えて、「社会人」として頑張っているのだろうと思っていたのです。
しかし、いざ自分が「社会人」になってみると、あくまで私の場合ですが、大学生活や無職生活の方が余程つらいものだったということがわかりました。
結局、死にたいと思いながら生きることほどつらいものはないのです。
学生だから、あるいは仕事をしていないから気楽で、会社員だからつらいというような、そのようなものではありません。
つらく苦しいのは、自分自身に、あるいは自分の人生に可能性を感じられず、絶望することなのです。
大切なのは死なないこと
人によっては、何をやっても上手くいかない時期というものが、たしかにあります。
それでも、大切なのは死なないことだと思います。
死ななければ、つまり命さえあれば、そこに可能性は必ずあります。
なぜなら、私が思うに、命とは可能性そのものだからです。
そして、可能性があれば、私たちは生きていけるのです。
生きるために一番大切なことは可能性を失わないこと、つまり死なないことなのです。